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改修パラッツォ @Venezia

ヴェネツィアン・ゴシック建築の代表的な建物カ・ドーロをカナル・グランデを挟んで臨む、16世紀に貴族の一員となったBrandolin家所有のこのパラッツォは、ビザンチン時代の建物を基部に、1400年代に建てられました。カナルグランデに面するファサードは1500年代のもの。ドゥカーレ宮殿をモデルとした6つのゴシック風の開口部は、ロッジャ(開放廊下)として、ピアノ・ノービレ(貴階)に配されています。今回見学するアパートメントは、1800年中頃の改修によって、6m近い天井高をもつピアノ・ノービレを2層に分けられた下階にあたります。近年のリノベーションによって、床と天井の補強及び寝室などの間仕切り変更などに加え、かつてのロッジャとしての開放感を味わうべく、窓のダブル蝶番をつかい全面的にオープン可能となっています。
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設計者は、ヴェネツィアの建築家アルベルト・ニコラオ氏。
施主はミラノ在住のシニョーラ・キアラ。デザイン業界で働いていたそうです。このアパートメントはセカンドハウスにあたります。見学のために、ミラノから来ていただきます。

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省エネ住宅 @Padova

イタリアの代表的な省エネ基準「CasaClima(カーザ・クリ-マ)」に則った新築住宅の見学。

日本では、平成25年省エネ基準により、300㎡以上の住宅を含む建物において、外皮平均熱貫流率と一次消費エネルギーを計算し基準をクリアしているという書類の届出義務という状況です。
イタリアでは、はるか24年前の1991年より「全ての新築の建物に対し外皮の最低熱貫流率等を指定し、確認申請時に省エネの書類を提出」させています。
現在に至るまで、かなり頻繁に法律も変わっています。
最近は、この10月にも大掛かりな変更があったようです。
いずれにしても、国の基準であります。

では、上記のCasaClimaとはなんぞや、となりますと、イタリア北部のボルツァーノという都市にて2002年に独自に発足した、建物のエネルギー性能を評価する、国とは独立した機関、ということになります。
違いはやはり、提出義務で終わらず、「適合」まで関わることでしょう。設計時のディテール、建物に掛かる影の調査、厳しい施工チェック、現場写真の送付、気密性テストを経て、適合か否かの判断が下されます。
このCasaClimaに適合する家を作るためには、建設費において約5~10%割高、証明書にかかる金額が約20万円。

今回見学する建物は、Aクラスで、年間エネルギー消費が22kwh/㎡年と計算され、従って延約200㎡あるこの家の暖房にかかる年間エネルギー消費量は、10kWhあたり灯油1リットルと換算され、22×200/10=440リットル、つまり灯油価格1.1ユーロをかけると、約500ユーロということになります。
イタリアでは、日本と違って冬季の暖房費がクリティカルに捉えられており、快適な温度で過ごそうとすると古い住宅だと700ユーロ/月かかる場合もあったりします。また、レンガ造の建物は、結露とも非常に無関係ではありません。
節約、健康、地球のことを考え、自主的にCasaClimaの基準に適合したいと思う人々が増えています。
それでなくても、ヨーロッパにおける次の、つまり2020年の目標は、ゼロ・エミッション=新築の建物からの二酸化炭素ゼロを目指していますから、私たち日本人の意識とかけ離れていることは事実です。

さて、本題。

省エネ住宅建築現場

私の勤めていた事務所はパドヴァ市の郊外にあり、物件もその近辺がほとんど。従って、新築が多いです。もしパドヴァの旧市街地区(チェントロ)だったら、改修がメインだったと思います。
今回訪ねる建築現場は、セルバッツァーノ・デントロという街で計画中のトリファミリアーレ(3戸長屋=テラスハウス)です。
この敷地全体は4分割され、4つのビファミリアーレ(二戸長屋)の予定でした。
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1テラスハウス(1/2)の値段が結局高くなり(40万ユーロ=5600万円)、不況の中、売れないということで3分割に、との要望のモト、ごり押しで設計しました。やはり真ん中が売れ残っているようです。
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図面のように、外断熱の厚さは壁160(レンガ250厚の外側)、屋根240(松材羽目板の上)です。

現在、断熱材張りを終えようとしており、私たちの訪問までには断熱材留め付けが終わり、外壁塗装下塗りが始まろうとしていると思います。

この建物の外皮平均熱貫流率は、0.23W/(㎡K)。
ちなみに福井は0.87、北海道でも0.46というのが、改正省エネ基準です。

設計事務所 @Vicenza

今回訪問するヴィチェンツァの設計事務所は、4人の若者(イタリアでは40台まではまだ若者)が共同で事務所を主宰している建築&デザイン事務所です。
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ヴィチェンツァの中心シニョーリ広場に面するパラッツォの3階にその事務所があります。

私のヴェネツィア大学時代の友人の友達フェデリコ(Federico Traverso)は、ヴェネツィア建築大学では建築・デザインを学び、卒業後、私の友人と共同で家具などの提案をしていました。現在も各メーカーから家具、デザイン製品を出しているようです。
現在、他のパートナーたちと共に、サルデーニャ島オルビアと言う町の病院建設プロジェクトを進めているようで、なかなか前に進まない苦労話を聞かせてもらえそうです。

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テアトロ・オリンピコ

アンドレア・パッラーディオの設計した劇場

現存する最古の屋内劇場。その頃ルネッサンス時代の劇場は、宮殿の中庭などに仮設されたものであった。

1555年に、文化的な街にふさわしいアカデミー(学術団体)を、それまでは散らばっていた形式を1つにまとめようと、街の知識人21人(その中にパッラーディオも入っていた)が発案、有力者たちが寄付をし、オリンピア・アカデミー(文学、歴史、哲学、科学、技術、芸術などを学ぶ場所)を設立。その中でも活動的であった演劇(古典喜劇)部門のための劇場を作る案が浮上し、パッラーディオに設計を依頼。
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この劇場は、紀元前の建築家ウィトルウィウスが建築十書に記述した古代ローマ劇場をベースに、またその頃近くに存在していた古代ローマ劇場のベルガ劇場を実測・研究することによって、設計された。1580年に着工するも、その年にパッラーディオが死去。息子のシッラがパッラーディオのデザイン・注釈を引き継ぎ、1584年に階段状観客席とそれを囲む装飾とプロセニアム・アーチのみを完成させる。しかしアカデミーが本当に必要としていた、パースペクティブを持つ舞台装置をパッラーディオが設計していなかったために、ヴィチェンツァの若き建築家スカモッツィがその意図をくみ設計し完成させた。ギリシャの都市テーバイにある7つの道を模していると言うその舞台装置は、一時的な使用として木製・漆喰で仕上げられたものの、これまで取り壊されたことはなく、火事や爆撃などの危険も想定されながらも奇跡的に現在にまでそのオリジナルが残っている。照明システムも、スカモッツィが設計した。
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現在の研究では、パッラーディオは当時、パースペクティブな装置は中央の通りのみ、脇の2本の通りは絵画による舞台背景と想定していたのでは、と考えられている。

最初の公演は、1585年のカーニバルの時期。テーバイが舞台となる「オイディプス王」であった。

バッサーノ・デル・グラッパ

ヴィチェンツァ県のビチェンツァ市に次ぐ大きな都市。

以下は、JITRA(サイトJapanItalyTRAvelより抜粋)

街について

バッサーノ・デル・グラッパは人口4万人の非常に古い歴史をもつ町です。バッサーノという名前の謂れは、ラテン語Fundus Bassianusという「地主Bassioの農地」という意味。ベネト・アルプスの麓、モンテ・グラッパ Monte Grappa とアジアーゴ Asiago、セッテ・コムーニ Sette Comuni の高原の間にあり、街の中をブレンタ川 Brenta が横切っています。この地形は温暖な気候をもたらし、ヨーロッパでオリーブが果実をつける最北端の町となっています。町の歴史は998年に始まり、エッツェリーニ家 Ezzelini に支配された中世を経て、ヴィチェンツァ支配下におかれ、パドヴァ、ヴェローナの手に渡り、1404年から1796年までヴェネチア共和国の下で文化、芸術、建築などにその影響を大きく受けました。繊維産業(毛織物、絹織物、皮製品)や金細工なども盛んでした。ヴェネチアの貴族や裕福な商人の別荘となった屋敷の美しい様式にその影響がみられます。現在でもバッサーノは自動車で1時間程度のヴェネチアと強く結び付き、ある種の親近感を抱いているのです。バッサーノはその後にナポレオンに征服され、オーストリアに譲渡されました。イタリア統一後から世界大戦までバッサーノでは陶器などの産業と北ヨーロッパとの商業で発展しました。第1次大戦の終わりごろにはバッサーノとモンテ・グラッパは戦場となり、第2次大戦後は反ファシズムのパルチザンの功績を称え、バッサーノの町に金メダルが送られました。

文化・芸術

文化面では市立博物館 Museo civico を中心として、研究活動や展示などをはじめとする活発な活動が繰り広げられています。市立博物館には考古学セクション、アントニオ・カノーヴァ Antonio Canova の貴重な設計図を保存したセクション、バッサーノが誇る1500年代の画家ヤコポ・バッサーノJacopo Bassano の代表作品も納められています。また、町の陶器の歴史を記録する大切な陶器博物館 Museo della ceramica もあります。町のシンボルであるポンテ・ヴェッキオ Ponte Vecchio はブレンタ川にかかる屋根のついた美しい木の橋で、”アルプス山岳兵の橋”とも呼ばれています。度重なる川の氾濫や戦争で何度も破壊されましたが、その度にアンドレア・パッラーディオ Andrea Palladio の設計(1569)に忠実に再建されました。

町の見所とイベント

カステッロ・エッツェリーニ Castello Ezzelini を中心とする歴史的中心地区には広場、教会や塔、記念物や芸術作品などの見所もたくさんあります。さらに、市立陶器博物館、ブレンタ川にかかるポンテ・ヴェッキオは言うまでもないでしょう。近くのアーゾロ Asolo、カステルフランコ Castelfranco、チッタデッラ Cittadella、マロスティカ Marostica やポッサーニョ Possagno はベネトの平野と丘陵地帯が出会う素晴らしい自然環境にあります。

毎年7月と8月には屋外でオペラ・エスターテ・フェスティバル・ベネト Opera Estate Festical Veneto が開かれ、世界各地のダンス、芝居、コンサート、ジャズ、オペラなど多彩なプログラムに惹かれて多くのファンがやって来ます。10月から4月は各種の演劇、コンサートが開かれます。12月はガリバルディ広場で伝統的なクリスマス・マーケット。子供はメリーゴーランドで楽しみ、大きなクリスマスツリーが1年を締めくくります。

食べ物やショッピング

バッサーノの有名な白いアスパラガスはその独特の栽培方法で、デリケートな風味を持ち、4月~5月の料理に登場します。また、バッサーノには、DOCワインに加えて、古くから蒸留酒製造の伝統があります。1601年にはこの町に蒸留酒の同業組合が設立されています。バッサーノのグラッパはその伝統と品質の高さで、世界中に町の名を広めました。現在ポンテ・ヴェッキオ周辺にはグラッパの店が集中しており、試飲や買い物ができるだけでなく、生産工程に興味がある人はグラッパ博物館 Museo della Grappa の見学もできます。地元の郷土料理を出すレストランやトラットリアは市内にも郊外にもたくさんあります。グラッパ以外にも小さな工房で伝統の陶器、貴金属、鉄細工、家具、テキスタイル印刷や版画などの手工芸品を販売しています。

Lago~家具メーカー

毎年春に開催される家具の国際展示会ミラノ・サローネをはじめ、イタリアン家具、イタリアン・キッチンなど、家具製造も重要な国の産業の1つであります。
B&BやCassinaなどの名の知れた家具の産地は、ミラノの北、コモ湖の南側の地域が有名です。その他、実はヴェネト州も、隣のフリウリ・ジューリア州と並んで家具を製造する中小企業が多く立地しています。
今回訪問する方面はしかし、ちょうど家具産地の狭間にあたり、家具工場は比較的少ないゾーンではありますが、工場訪問のできそうなところ、モダンファニチャーを製作しているところ、という点を踏まえ、家具メーカーLAGO株式会社Lago SPAを訪問することに決めました。製造理念も日本と関わりがのあるという点も興味深いところです。
純粋に、イタリアの家具工場がどういうところか、見学したいと思います。

以下は、LAGOのHPを翻訳したものです。

Lago
www.lago.it

歴史 Storia
Lagoの歴史は、ポリカルポ・ラーゴが、高貴な邸宅やヴェネツィアの教会において家具職人として活動を始めた1800年の終わりから始まります。
次の世代もその伝統を受け継ぎ、新婚カップルのための部屋、そして一連の玄関家具を製作していきます。
1980年代、その息子たちが一旦立ち止まり、リビング家具、寝具の製作に転換させます。
2006年、その息子たち、つまり4代目となる世代が、Lagoを株式会社とし、世界へと目を広げました。

現在Lagoは、売り上げが3000万ユーロ(40億円)、従業員は170人に達します。販売店は世界に400店舗を数え、Lagoの専門店は、ローマ、ミラノはじめとしたイタリアのみならず、ロンドン、パリ、マドリード、バルセロナ、ベルリン、プラハにも置かれています。
他の文化、パートナー、代理店、消費者、ブロガーたちとの交流をもち、更なる発展を図りつつも、根本的な関係はしっかりと携え続けていきます。

Lago工場 Fabbrica
Lagoの工場は、サスティナブル住宅の原理に基づき、建築家イタロ・キウッキーニにより設計されています。工場としてではなく、陽が沈むと作業場が夕日で満たされるような、ガラスや木でできた家の様相を持ちます。建設に当たっては、工場建築では通常使わないような材料が使われています。木やレンガ、ガラス、鉄、アルミなど。傾斜した屋根が織りなす一連のハーモニーは、そこで作業する人間にとって好ましい、ヒューマンサイズな空間を作り出しています。

また、Lago工場は、「無駄を削る」メソッドのもと、家具を製作しています。この簡潔な考えは、意味のない時間を割き、無駄を減らし、確実な改善を手に入れることができるのです。
Lagoは、事業及び製作の2つの柱から成り立っています。いずれにおいても、TOYOTA生産哲学に依拠しています。

Kaizen & Lean Thinkign: 改善と無駄
Kaizen改善とは、企業内部の隅々まで巻き込んだ、1歩1歩継続的に修正していく、という日本の方法論です。改善の基本は、「企業のエネルギーは下部から」という意識であります。つまり企業の成功は、経営手腕ではなく、製造における直接的な仕事によるものなのです。
Lean Thinking無駄をなくす、とは、製造過程において最善の効率をあげることを表彰する企業の制度を通し、無駄を最小限に抑え最終的になくすことを目的にした「身軽な製造」と同意義であります。

無駄を省くLean Thinking考えにより、Lagoは常に、規制のない無秩序や、手待ちな時間、といった余分な行動を避け、つまりそのような時間に消費者がお金を払うことにならぬよう、不動の製造改善を模索しています。結果、生産プロセス、イコール生産価値であり、デザインの発想から製作まで、その製品は、どこにも「置き放たれる」ことなくクライアントの家にたどり着くというわけです。

ビジョン「Interior Life」
人が多くの時間を過ごす場所が質の高い空間であれば、その人の生活・人生も質の高いよりよいものになるであろうと考えます。
それが、Lagoのデザイン・ビジョンであり、「Interior Life」に我々は重きを置くのです。つまり、誰もが持つ感情に関する内面的Life、そして事務所、家、ホテル、病院、学校などにおける気持ちよく過ごせるインテリアのあるLifeです。

Lagoの哲学(Lago Interior Life Manifest)は、11の言葉で表現できます。
1 すぐに簡潔に
2 自分の内面のためのインテリアをデザインしましょう
3 1つ1つの小さな人間関係を信頼しましょう
4 私たちはみんな羅針盤を持っているのです~頭と心と勇気と
5 無に生命を持たす中身を考えましょう
6 経験と価値観をもって心地よい空間を作りましょう
7 美は、常にビジョンの中にあります。
8 時間を過ごすための、その本質であるもの。
9 デザインはあなた、我々はその必要とする「アルファベット(基本)」を供給するだけです。
10 あなたが好きなことをするその時に、「創造性」と言うものがやってくるのです。
11 決して止まらないで。

アンドレア・パッラーディオ

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AU2011年11月号のアンドレア・パッラーディオ特集

(廣瀬さんにスキャンしていただきました)

Kawashiman.26 (昭和63年発行の川島織物の季刊誌)


Wikipediaウィキペディア(日本語版)より リンク

アンドレーア・パッラーディオ(Andrea Palladio, 1508年11月30日 – 1580年8月19日)は、イタリア・パドヴァ生まれの建築家。本名はアンドレーア・ディ・ピエトロ・デッラ・ゴンドーラ(Andrea di Pietro della Gondola)。

生涯

1508年、パドヴァの粉屋ピエトロ・デッラ・ゴンドーラの子として生まれる。後に石工となるべくバルトロメオ・カヴァッファの工房に入ったが、やがてヴィチェンツァに移り、ジョヴァンニ・ディ・ジャコモとローラモ・ピットーニの工房に入った。その後、人文主義者ジャン・ジョルジョ・トリッシノから建築家としての素養を見出され、古典主義思想とローマ時代の建築について手ほどきを受け、同時に数学、音楽、ラテン文学などについても薫陶を受けていたとされる。何度かのローマ旅行などを経た後、本格的に建築家として活動するにあたり、パッラーディオという名前をトリッシノから与えられた。これはトリッシノ自作の叙事詩の天使の名として考えられていた名前だといわれる。彼の活動に大きく影響を与えたのは、1541年と1545年にトリッシノとともにローマを訪れた際である。パッラーディオは、ウィトルウィウスの『建築十書』を片手にローマの古代建築を見てまわったが、これは古代ローマに関する知識に大きな影響を与えた。また同時にドナト・ブラマンテとラファエロ・サンティなどの当時のローマ流行の先端も知る。1546年、ローマから帰国した彼は、ヴィチェンツァ市で予てから懸案となっていたパラッツォ・デッラ・ラジョーネ(通称バシリカ、市の役場兼公会堂、イタリア北部には多く見られる類型)の改修案を市に提出し、この案はヤーコポ・サンソヴィーノやジュリオ・ロマーノなどの既に名声を確立していた建築家の案を退けて当選した。この公共建築は市のシンボルとなる巨大なものとなり、セルリアーナを連続させるというユニークな構成、またその連続のさせ方も非常に凝った造りであり好評を博した。これを契機に彼の名は北イタリア一帯に広まり、以後仕事の依頼が増えることとなる。

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ヴィチェンツァでの最初の邸宅建築であるパラッツォ・ポルト(1549年頃着工)は、明らかにラファエロとブラマンテの影響を受けたものであるが、1550年に起工されたパラッツォ・キエリカーティは、ヴェネツィアの伝統に則しながらも、ローマ時代の邸宅のイメージをパッラーディオ独自の手法で重ね合わせたユニークなものとなっている。彼の別荘建築はシンメトリカルな平面で、各部を調和比例によって決定することについて自身の著書にも述べているが、実際にはそのようになっているものは少ない。またこの記述をもとにして、各部を調和比例によって決定する手法の是非について、その後多くの会派を生むことになった。1554年起工のヴィッラ・バルバロ、1556年のヴィッラ・バドエルなど。1566年に着工したヴィラ・アルメリコ(ラ・ロトンダ)は、建物の4面が同じファサードというユニークな形態で、その後イギリスなどに多くのコピーを生んだ。パッラーディオは、ヴェネツィアでも仕事を受けた。1564年に、修道院長アンドレア・パンプーロがベネディクト派鼓舞のために計画したサン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂、1578年に、ペスト終結の祈願としてジュデッカ島に建てられることが決定されたイル・レデントーレ聖堂の建設である。1556年、ヴィチェンツァの貴族と知識人は、文化活動の拠点としてアカデミア・オリンピコを設立し、パッラーディオは、1580年初旬に恒久的劇場としてテアトロ・オリンピコを設計したが、その年の夏に死去した。

設計手法

平面図を基本にして空間を設計した最初の建築家と考えられており、それまでの彫刻家や絵描きが建築を創る手法と本質的に異なる手法である点で、最初の専業建築家またはプロ建築家ともされる。活躍した時期は、一般的には後期ルネサンスからマニエリスムの建築家と分類されている。古典建築の形態要素であるオーダー・アーチを用いながらも、その構成方法は年齢によって差がある。彼の手法で有名なのは「セルリアーナ」またはパラディアーナと呼ばれるアーチと柱を組み合わせた開口部の表現であるが、これはパッラーディオがローマ建築を研究する中でセルリアーナの原型を発見し、影響を受けた結果と考えられている。ジャイアント・オーダーの用い方や、普通の住宅にペディメントを取り付ける手法など、一歩間違えれば奇異になりかねない大胆な手法を駆使した。

影響

パッラーディオは職業建築家としては最初期の人物で他の芸術活動には携わらなかった。彼の建築はローマ時代の建築知識に基づくものであるが、これは考古学的知識と実際に遺構の実物を多く見た経験に基づくものである。また彼がローマ建築を調査し、論考した『ローマ建築(Le antichita di Roma)』は1554年に出版されており、これはネオクラシシストたちに多大な影響を与えた。そして1570年刊行の『建築四書』は、彼の建築理論の集大成であり、後のパッラーディオ主義(Palladianism)において常に引用される標準テキストとなった。彼の死後、一時期はその名が埋もれた状況となったが、18世紀のイギリスにおいて、イニゴ・ジョーンズやバーリントン卿らによってその建築と著作が再発見され、パッラーディオ主義とよばれる建築運動を巻き起こした。これは当時の支配階級の嗜みという側面が強い。以後彼の建築はその多くが保存修復され、 21世紀の現在もヴィチェンツァを中心に多く現存し、その姿を見ることができる。またヴェネト地方の別荘群は世界遺産に登録されている